時間があっという間に過ぎていく。 やるべきことがたくさんあるためか。 
          だからと言ってすることが少なければ幸せかというとそうでもないらしい。 
          一日中、ぼんやりと過ごすことが余裕かというと、それは単に暇なのであって、余裕というのではないらしい。 どうやら、余裕 や ゆとり は、仕事の量との関係は我々が思っている以上に希薄かも知れない。
          
          積極的に自分の物として取り組んでいれば、余裕が生まれるのに、他人の敷いたレールの上を忠実になぞろうという姿勢で取り組むと、そこから落ちまいとして、心に余裕がなくなる。
          
          
          第一人称で物事に取り組めば、心が見える余裕とゆとりにつながるのではないか。 
          これは積極性であり自主独立の心である。 
          人様の後について歩くと、大層疲れる。 
          自分が一番で歩いていくと、疲れない、もしくは、疲れが後続の人達に比べて、きっと、少ない。 
          それは歩いた道のりや時間と無関係ではないが、それが第一義ではなさそう。 
          職場でもリーダーは疲れない。 
          命をかければかけるほどに疲れなくなっていく。 
          人間の心と身体は不思議でいっぱい。
高く飛べるのが目的ではない。 
          自分の背丈よりも、もしかすると高い跳び箱に挑む姿勢を経験して欲しいだけ。 
          だから、7段が跳べた子も、4段が跳べた子も、自慢できる。 
          自慢の種は他者との比較で存在するのではなくて、自分の心の中にある。 
          今年の卒園児に、他の子どもたちが、9段が跳べた、10段が跳べたと自慢げに話をする中で、ひとり「6段が飛べた。嬉しかった」と皆の前で言った子がいた。
          
          9段や10段を跳んでから小学校へ進んでいった子に比べて、この子の跳び箱の意味は、きっととても大きかったに違いない。 
          この子の積極性が嬉しい。
高く飛べるのが目的ではない。 
          跳び箱をする。 
          それゆけやれゆけと高さを競わせないで、その子ができたことを誉めていくことのできる先生につく。 
          
          <誉めることの意味を知らない先生は、減点法で取り組むのが、おおむね多い様子。 できたことを誉める前に、できないことをがんばれというから、世の中が嫌になってしまう。
          ただ、むやみやたらと無節操に誉めると、誉めないとしない子になってしまう。程度と適切度が必要なのは言うまでもない> 
          
          旅をする。 昔、自転車で日本列島を縦断する子が幾人かいた。
          彼らの、共通として、ブラウン管の向こうながら、想像してみるに、温かい家庭があること。 
          帰るところがあるという認識を持つ子が、本当の意味で旅をすることができる。